「焼き肉が食べたい」は錯覚
この記事の結論は「焼き肉が食べたい」という感情が錯覚であるということです。
それ以上の結果は得られません。
ふと、「あ〜〜〜焼き肉食いてえ〜〜〜〜」といったことはありませんか?
ありますよね。
ない人は知りません。
この唐突な焼き肉に行きたいという感情を僕なりに分析してみました。
まず、ふだん持ち合わせている欲はどういうものがあって
それぞれどれくらいの熱量なのか、欲を自覚するというのはどういう仕組みなのかを考察してみます
ほかにもいろいろありますが、プラス・マイナス含め例としてはこんな感じ。
最大は100で100というのはもうやらずにはいられないという状態になっているという認識でOKです
ぼくはそれほど焼き肉の禁断症状に襲われることはないので、焼き肉は10としました。
この「欲」はそれぞれを達成すると、一時的に0に近い状態になるのがポイントです
ぼくの一番強い欲はお酒なので、
毎日このような顔つきをしています。
つまり、その瞬間に欲の中で相対的に一番強い欲が表面化し、「酒が飲みたい」「ゲームがしたい」「寝たい」という状態になります。
以上のことから「焼き肉が食べたい」というのは、
他の欲を処理した状態でのみ自覚するということです。
そして次に、そもそもなぜ焼き肉なのか?という疑問
焼き肉が嫌いな人はいません。
しかし僕は特別好きなわけではありません
という僕でも焼き肉が食べたいという状態に稀になるということは、おそらくこの「焼き肉」はなにかの概念なのではないかと仮説が浮かび上がってきました
そこで、「焼き肉とはなにか?」を考えます
小さい時、親はご褒美として焼き肉に連れて行ってくれました
これはおそらくどの家庭でもよくあることで、
テストで良い点をとれた、スポーツで良い成績を残せた、なんか表彰された、ガノンドロフを倒した、誕生日のお祝い
など、めでたいことや努力への報酬として親が与えてくれていました
今考えてもなぜ焼き肉だったのかは不明ですが、おそらくこういった経験から「幸福感」「満足感」「達成感」など、
ポジティブなイメージを孕んでいることがわかります
「焼き肉食べたい状態」は他の欲を満たした状態というのが前提なので、おそらく具体的ななにかをしたいわけではありません
漠然としたポジティブイメージに対する飢えが焼き肉という言葉に変換されているようです
つまり焼き肉というのは焼き肉である必要はなくて、楽しいなにか、のような概念とわかりました
具体的な目標を消化してしまい、ハッピーな経験に飢えているのが「焼き肉食べたい」の正体であるという結論を出すことができました
「焼き肉食べたい」は、別に焼き肉が食べたいわけではないので、焼き肉へいくのはやめましょう。
焼き肉食べたいなと思ったら、「あ、そういえばこの感情は錯覚なんだ」と思い出してください。
お付き合いありがとうございました。